興に乗ったので、勢いで書いている。
"好き"という感情についての考察。
(これはあくまで私個人の考えである。)
"好き"という、人やもの、概念など様々な対象について抱く、大まかに言えばポジティブな感情。以下、コトバンクより引用した項目の(1)の意味での"好き"について。
[名・形動]
1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。「好き な人」「好き な道に進む」⇔嫌い。
2 片寄ってそのことを好むさま。物好き。また、特に、好色。色好み。「幹事を買って出るなんて、君も好き だねえ」「好き 者」
3 自分の思うままに振る舞うこと。また、そのさま。「好き なだけ遊ぶ」「どうとも好き にしなさい」
4 ⇒すき(数寄)
私が思うに、"好き"という表現の大まかな意味の枠組みは共通認識として人々に備わっているとして、その程度やニュアンス、種類などについては完全に個人の考えや価値観に依存していると思う。
私は人を対象とした"好き"とものを対象にした"好き"は種類が異なると思っている。
また、同じ"人"に対する"好き"であっても、推しに対するものと、恋愛対象としての相手に抱くものでは種類が違う。
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対象が人である場合の"好き"について
マンガやドラマなどの物語の中で、
「あの子よりも私のほうが彼のことを絶対に好きって思ってる」
というシーンを見ることがあるが、これは完全に上の心情を抱いている人間の主観であって、実際には"好き"という感情を定量的に比べることは不可能であると思っている。
愛情表現が上手い人のほうが"好き"という感情が見えやすいがゆえに、"好き"の程度も大きいように思えるかもしれないが、それがうわべだけの可能性だってあるし、逆に普段あまり感情を見せない人間が実はクソデカ感情を抱いているということだってあり得るのである。
つまり、"好き"の程度を比べることは難しいし、もはや意味がないことであると思う。あえて比べようとするのであれば、その裁量は"好き"の受け取り手に委ねられるのではないだろうか。
そういう意味では、どれだけ心のなかで"好き"と思っていようが、相手に伝わらないと意味がないわけで、"好き"を伝えたもん勝ちなのでは。
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自分について言えば、
私は世間一般と比べると、なかなかに人を恋愛的な意味で好きと思うことがないようである。自分は自分でしかないので、人と比べるのは難しいが、恋愛の話を人としているとそんな風に思うことが多々ある。ただ、人を好きになることはできるという自覚はある。好きになるのに時間がかかるだけで、ちゃんと好きだし(ちゃんととは?)。
1つの恋愛に対して掛かる心のコストというのか、キャパシティというのか、が人よりも多い気がしている。1恋愛の期間のスパンが3~10年とかそれくらいの単位だし。
そんな感じで、私は自分の恋愛的な"好き"が重たい自覚をしているので、これを迂闊に人に押し付けられないなと思って、表に出せないことが多い。表に出して否定されたら、普通に悲しいから、怖いというものあるけれど。
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告白してフラれたらきっぱり諦める、という人について、内心、そんなに簡単に諦められるなら対して好きじゃないじゃん、と思っている私がいる。
これに関しては、理屈じゃどうにもならない気持ちが"好き"の正体だと思っているし、そんな簡単に諦められてたら自分だってとっくに諦めてるわ。
でも多分、きっぱり諦めて次に進むほうが余程効率がいいし、生きるのが上手なんだろうね。
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好きな人の幸せを一番に願っているのは間違いないのだけれど、じゃあ一方で私の成仏できなかったこの気持ちはどこに行くのだろうか。大分持て余している。
成仏できなかった気持ちは肉体ごと葬るしかないのでは?
どうしようもないことが分かっているからこそ、どうしようもなく悲しい。
くるしい。
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ああ、また重苦しい記事になってしまった。
私のとある"好き"についての供養。